2026.10.4
センスと才能
2026.10.4
センスと才能
(野球しすぎの影響か、右クラブで左打ち)
先日の投稿について、タイトルの答えが書いてないじゃん!(注: ポテンシャルとセンスは何が違うのか)との指摘をいただきまして、読み返したところ、書いてありませんでした。大変申し訳ございません。ここからは言い訳になります。息子から「書くな」と言われまして、・・・とさせていただきました。答えはここにあるわけで、当然のことながら書けません。
ですので、息子とは若干異なりますが、私の考えを披露させていただきます。まず最初にお断りしておくと、辞書的な定義から距離があります。それはそれで、頷ける。ただ、センスについては、アスリートの世界、いやゴルファーの文脈に限定すると言葉の響きから私は違うものを見出してしまう。ポテンシャルは潜在能力(単なる翻訳です)。あるジュニアゴルファーを指して、ポテンシャルあるわ!と言うのは、目の前の実績はないけど、いや実績があったとしてもまだまだ伸びるよ、という意味が込められている。伸び代だらけ、という言葉にも表れる。ゴルフの世界でテッペンを目指す上で活かされる、身体にあるもの。取り組み次第では他の競技にも活かされるかも。前回の投稿で触れたプロスカウトさんのお話に出てくるように、実績と対置される言葉。ポテンシャルと実績。
一方、センスは、向いているかどうか。感覚の鋭さとか直感力の高さとかではなく。「どうやってそんな動きができるの?」と聞かれて、「いや考えたことないねぇ。知らない間にできていたよ。いや、最初からできてたような気がするなぁ。はっはっはっは」みたいな感じ。才能と重なるところはあるけど、センスがある、という言葉には、その取り組みに触れるにあたって持って生まれた能力が抜群という意味よりも、本人が向いているかどうかすら考えたこともなく、それでいて場合によっては誰が見ても向いているという状態を意味している。他者から言われて気づいて、でもまだ向いているのかどうか、物差しを同じように取り組んでいる他者にしないと判断できない状態。努力と対置する言葉ではない。それは才能。才能と努力。
センスはスキルと違う、と議論を発展させたのが、私が仕事の世界で影響を受けた大先輩。でもゴルフの世界ともなると、センスは才能と違う、と私は議論を展開したい。「俺には〜の才能があるかもしれない」と言えるけど、「俺には〜のセンスがあるかもしれない」とはなんか私的には引っかかるものがある。ギフトやタレントという言葉には、本人が自然とそれに気づいたり意識したりする側面がありそうで、センスには自覚というか自分でそれがあると言っちゃうというか、そうした側面は影を潜めている感じがする。他者がある人に「センスがあるね」と言う場面ばかりを想像してしまう。センスから才能へ、と単純にはいかないような気もする。向いているかどうか、後にならないと分からない、とは私は思わない。他者の存在。
書きなぐってきて分からなくなってきましたが、向いているかどうか、向いていればセンスがある、ということになる。私はそう捉えております。息子の意見は、企業秘密で。もう少し息子が成長したら私に反撃してきそう。
今日は、スイミング、会長のところ、台湾料理、公園(バスケ&野球)、レンジ&ショートコース(日没まで、最終組)、牛ステーキ丼&天丼&完熟バナナジュース@幕張PA、という流れでしたが、会長からはこれまで何度か「Rはセンスがある」と言われてきた。だからおそらく私の中で、「センスがあるかどうかは本人が発するものではないし、自覚できるものではない、才能とは違って」という考えが生まれてしまったのだろう。辞書的な定義なら、感覚の鋭さは本人だからこそ良く分かる、となるので、これは矛盾する。正確に紐解いていくならば私の考えは間違っている。ただイメージとして、響きとして消し去ることが私の中ではできない。
向いているのかどうか、本人には良く分からない。でも見える人がいる。その人に褒められる。一方で、見えてしまうからこそ厳しい注文をつけていただいて、本人は自分の意思で、努力を重ねるというか量をこなす。会長には、頭が下がって、上がりません。父としてのわたしは息子にそういう接し方は出来ない。
会長のところで帰り際、次回の研修会の日程をヒロプロから教えていただく。12月。場所は南茂原カントリークラブ。今年6月、PGA男子プロ1次試験が行われたところ。もちろん、親子で参加。前回初参加の時、息子は赤ティだったけど、さすがに今回は白ティであろう。私と息子、同じティでどちらが勝つのか。絶対に負けられない戦いがそこにはある。もう息子が4年生の時点で父は勝てなくなりました、とはなりたくない。もう負けている感じはしますけど。
(いつもとは違う公園で。坂。これぞ草野球)